莫老師日文教室 - 日語教育論文 - 七夕をめぐる詩と歌―日本の古典文学に受容された伝説と表現 |
| 七夕をめぐる詩と歌―日本の古典文学に受容された伝説と表現七夕をめぐる詩と歌 ―日本の古典文学に受容された伝説と表現 莫素微 中華科技大學通識教育中心助理教授 要旨 七夕伝説および詩は中国から日本へ伝来するのが普遍的な見方である。とりわけに漢詩集である懐風藻と最も早い和歌集である万葉集に大きな影響に及んでいるのが見られる。本論は、七夕伝説はいかに中国に伝来したか、それにどういう形で日本の古典文学に受容されたのかを論じてみたいと思う。 中文摘要 一般認為七夕的典故傳說和詩是源自中國,尤其在漢詩集『懷風藻』和日本最早的和歌集『万葉集』中,特別看得到其影響痕跡。本論文要探討七夕傳說是如何流傳至日本的過程,以及它是以怎樣的形式融入日本古典文學之中。 キーワード:七夕、懐風藻、万葉集 一、はじめに 中国と日本の七夕をめぐる詩と歌を比較研究について、すでに多くの先学が多大な業績を残している。特に万葉集、懐風藻と中国の詩との関連性、そして、どのように日本文化に取り入れられたのかを探求する研究が少なくない。それらの研究の成果からみると、日中両国の文学における個性が伺える。無論、中国は影響を与える方であれば、日本は受ける方である。しかし、七夕の伝説が日本に伝わった後、必ずしもそのまま受け入れたわけではない。どの経路を経て変容したのか、それは興味深いの問題だと思われる。本稿の目的は先行研究の成果を踏まえて、中国の「詩」と日本の「歌」との接点を明らかにすることに目指している。さらに、両国の七夕に関する描写や造形の相違点を突き詰めたいと思う。 二、七夕伝説 中国で牽牛星と織女星に関わる最初の記載は秦代の「詩經小雅大東篇」にある。 「維天有漢,監亦有光。跂彼織女,終日七襄。 雖則七襄,不成報章。睕彼牽牛,不以服箱。」 この時期の内容はまた男女愛情の成分は見られない。しかも、内容的には当時中国西周の貴族に対する風刺であると一説がある。[1]詩の内容は「天漢」の後に続いて「織女」と「牽牛」が相次いで出てくる。この三つの要素は、後世の七夕伝説の基盤になると思われる。なお、このときの「織女」と「牽牛」はまだ愛し合う男女と見なされていなかった。ただ星の名だけである。 日本では、タナバタツメに関する伝説は、日本の民俗学者の折口信夫[2]によれば、 夏秋のゆきあいの時期に、水辺に掛け造りにした棚の上で、遠来の稀人神の訪れを待って機を織る女性がタナバタツメ<水の女>であるという。 中国と同じ、起源としての伝説はあまり愛情との関連性がない。なお、織女に関する解説は、 七夕信仰は、古代日本において水辺の棚で機を織りつつ聖なる来訪者を待っていた女で、棚機女の信仰が中国の乞巧奠と融合して生まれたもの。[3] さらに、タナバタツメの伝説を遡って、記紀の神話の中に以下のように記載された。 「女鳥のわがおほきみの織ろす服誰がたねろかも」(古事記‧下) その秀起つる浪の穂の上に、八尋殿を起てて、手玉玲瓏に機織之少女は、これ誰が子女ぞ。(神代紀‧下) 天なるや弟織女のうながせる玉の御統のあな玉はや、み谷ふた渡らす味耜高彥根。(神代紀‧下) 記紀の内容から見れば、中国と同じく七夕の伝説は最初には男女恋愛の筋がないという。しかしながら、これらの伝説は、中国からの七夕伝説を容易に受け入れる準備が整えたとはいえよう。 三、中国の七夕詩 愛情を詠嘆する一番早い詩は中国の『文選』の「古詩十九首」中の第十六首目にあたる 「迢迢牽牛星,皎皎河漢女。纖纖擢素手,札札弄機杼。 終日不成章,泣涕零如雨。河漢清且淺,相去復幾許。 盈盈一水間,脈脈不得語。」 の詩である。内では牽牛星、織女星、銀河などの天象に基づき、地上男女の哀歓を投射する詩である。別れの悲しみと会いたくても天漢、いわゆる銀河に隔てられて心の切なさを表す。 これだけでなく、曹丕燕歌行でも 「明月皎皎照我床,星漢西流夜未央,牽牛織女遙相望,爾獨何辜限河梁。」 この一首も離別する男女の相思を取り上げる。魏の後に牽牛星と織女星の擬人化として性格は一層強くなったことは見られた。[4] 次は梁代の『荊楚歲時記』の中には 天河之東有織女,天帝之子也。年年機杼勞務,織成雲錦天衣。天帝憐其獨處,許嫁河西牽牛郎。嫁後遂廢織袵。天帝怒,責令歸河東,唯每年七月七日夜,渡河一會。 ここまでは、織女が天帝の娘である伝説は形成した。しかも、天衣を織ることを廃業したから、罰として離れられた。ゆえに、一年一度だけ会えることも詩の素材になった。 晋代では、織女が渡河する想像は以下のように、車駕に乗る傾向が見られる。 「時來嘉慶集,整駕巾玉箱。瓊珮垂藻蕤,霧裾結雲裳。金翠耀華輜,軿轅散流芳。」(晉,蘇彥,七月七日詠織女) 「紈綺無報章,河漢有駿軛。」(南朝宋,謝靈運,七夕詠牛女) 「弄杼不成藻,聳轡騖前蹤。」(南朝宋,謝惠連,七月七日夜詠牛女) 以上のいくつかの例を見ると、時が南北朝に移って、このような定型化されるイメージは中国の詩人たちに強くねついていることが見られる。この時の織女は神であるので、もとより車駕に乗るのもおかしくはない。 さらに、南北朝の梁代に入ると、 「不辭精衛苦,河流未可填。」(梁,范雲,望織女) 「倩語雕陵鵲,填河未可飛。」(梁,庾肩吾,七夕) 梁に至るまで、カササギが河を埋める伝説とまた直結していなかったが、その先駆けの影が見える。 「奔龍爭渡月,飛鵲巧填河」(唐,宋之問,牛女) 「遙愁今夜河水隔,龍駕車轅鵲填石。」(唐,王建,七夕曲) カササギが河を石で埋めて、橋を作る表現法は、唐に入った後ようやく見えてきた。唐代以降にも、多くの詩人が牽牛星、織女星、鵲を多用し、詩作に用いる。日本と中国の往来の最初の記録は弥生時代からである。その後、両国の交流は中国の晋、南北朝、隋、唐を経て、だんだん強くなっていった。後の章で懐風藻と万葉集を取り上げ、中国からの影響を弁明する。 四、懐風藻の詩(成立年代751年ごろ) 懐風藻の七夕詩は主に中国のものを模倣したとこで、その創作力が制限されたという指摘があった。だが、奈良期から平安期にかけて公的な場で詠まれる漢詩集として、日本上代文学では、重要な位置に占めているとは言えよう。その中から、七夕を詠む詩を取り上げて、比較する。懐風藻に見える七夕の詩は以下のように六篇がある。 (1)「雲衣兩觀夕 月鏡一逢秋 機下非曾故 援息是威猷 鳳蓋隨風轉 鵲影逐波浮 面前開短樂 別後悲長愁」(藤原不比等) (2)「金漢星榆冷 銀河月桂秋 靈姿理雲鬢 仙駕度潢流 窈窕鳴衣玉 玲瓏映彩舟 所悲明日夜 誰慰別離憂」(山田御方) (3)「仙期呈織室 神駕逐河邊 笑臉飛花映 愁心燭處煎 昔惜河難越 今傷漢易旋 誰能玉機上 留怨待明年」(百済和麻呂) (4)「犢鼻標竿日 隆腹標書秋 風亭悅仙會 針閣賞神遊 月斜孫岳嶺 波激子池流 歡情未充半 天漢曉光浮」(紀男人) (5)「帝里初涼至 神衿翫早秋 瓊筵振雅藻 金閣啓良遊 鳳駕飛雲路 龍車越漢流 欲知神仙會 青鳥入瓊樓」(藤原總前) (6)「冉冉逝不留 時節忽驚秋 菊風披夕霧 桂月照蘭洲 仙車渡鵲橋 神駕越清流 天庭陳相喜 華閣釋離愁 河橫天欲曙 更歎後期悠」(出雲介吉智首) 中国からの詩の影響を直接に受けた形跡が見られる。今まで取り上げた例は、天漢を渡るのは殆ど織女であり、乗り物について「鳳蓋,仙駕,神駕,鳳駕,龍車」などと表現されている、美しくことごとしい車駕に乗って渡河する様が詠じられている。[5] 五、万葉集の歌(成立年代759以後) 万葉集の七夕歌はいかに中国に影響されたかという問題はまず、万葉集の成立時間から探求すべきである。万葉集時代は、おおよそ仁徳天皇期から奈良中期まで約四百五十年にわたっていると推定されている。つまり、懐風藻の成立時間を少しも重なったといことである。従って、万葉集も中国の漢詩文の影響を受けた可能性はないとは言えないであろう。万葉集にある七夕歌は、一三二首。作者は人麻呂を中心とする歌が多い。 続いてはまず万葉集の中の歌いくつかを紹介する。例えば、人麻呂の歌 「天の川安の渡りに舟浮けて秋立つ待つと妹に告げこそ」(人麻呂歌集2000) 「我が背子にうら恋ひ居れば天の川夜船漕ぐなる楫の音聞こゆ」(人麻呂歌集2015) 「我がためと織女のそのやどに織る白栲は織りてけむかも」(人麻呂歌集2027) 「大船に真楫しじ貫き海原を漕ぎ出て渡る月人壮士」(柿本人麻呂3611) 次に、志貴皇子の子湯原王の七夕歌2首 「彦星の思ひますらむ心より見る我れ苦し夜の更けゆけば」(志貴皇子1544) 「織女の袖継ぐ宵の暁は川瀬の鶴は鳴かずともよし」(子湯原王1545) 以上の例から見たように、万葉集に収録された歌の共通点は おおむね素朴な地上の男女の相聞の世界の姿の様に、男が女を訪ねる型で牽牛星が渡河して織女はひたすら待ちこがれる。そして牽牛星の渡河するのは舟をこぎ、その舟は地上の渡し舟と変わらない。[6] と 夜の河をいかめしく鳳輦に乗って渡るのは、詩の織女星であるが、万葉の織女星は夜河を徒歩で渡ったり、夜船を漕いで霧のこめた対岸へ辿りつく彦星を迎えるつつましい女星であった。[7] これらの特性を見ると、中国の漢詩文に偏っている懐風藻とはずいぶん表現の手法は違っている。見逃さない点は、懐風藻では、カササギはそのまま用いられること。日本において、「懐風藻」に見えるが「万葉集」では全く見えない。そして、漢詩の「車駕」は「舟」に置き換えたこと。ここで二つの違いを分けて説明する。 日本古来の伝承は、海中の他界から、のちに天上から、時を定めて日本に来航して、巫女に迎えられ、人々の健康や農作の豊作を祈る。海中の他界から来る神だから、乗用するのは当然舟である。神話の中に天照なども舟に乗って降下する。この伝承によると、「車駕」を「舟」に書き換えることもおかしくはないだろう。[8] 次に。子湯原王の歌では、鶴という表現がある。古代日本人は鳥を神の使者、魂の運搬者とも考えていた。その中白く大きい鳥のとりわけ意識した。[9]この伝承から推測すれば、中国の石で河を埋めるカササギの役割はだいぶ違っている。なぜかと言うと、おそらく日本の伝説では、すでに「舟」で渡河するから、中国の「車駕」とは違って、わざと渡河するための「道」を創造する必要はないからである。そもそも、舟で渡河するなら、道や橋などへの連想がつかないのであろう。 七、結び 上代人は七夕の詩歌の中に、七夕文学という異国趣味のものに更に口承の世界より受けついだもの、或は自己の嘆きを融和させる必要があった。この際「制約するもの」は中国文学であり、「演ずるもの」は上代人にほかならない。従って、上代に於ける七夕の韻文は、中国文学の摂取と自己に潜む文学表現の力との混淆によって展開し、全体として七夕文学と云う一つの文学の世界を形成して行くのである。[10] 以上の中国と日本の七夕歌の異同を整理する。 (1)中国伝承とは逆に牽牛が渡河する。 (2)中国では豪華な乗物で渡るのに対し、「舟」で渡る。 (3)中国の詩はもちろん、懐風藻にもそのまま鵲が詠じられているが、万葉集の七夕歌は鵲は登場しない。[11] 中国の七夕伝説では天の川を渡るのは織女であるが、万葉集では殆ど牽牛である。これは日本の妻問い婚の生活を反映するかもしれない。次は、なぜ車駕を船に置き換えるのか。それに、なぜ万葉集の中で鵲を詠まずにいるか。原因は上に述べたように、創作する時点で民族性と伝説を構成する基盤は同じくはないからであろう。 また、今回では中心にする対象は七夕詩と歌であるけれども、伝承と用語の違いの観点にとどまっている。不足の部分や残された問題はあるが、本稿はまずここまで終わる。今後また機会があれば、さらに一歩深くところに研究の手を伸ばしたいと思う。 参考文献 秋山虔‧三好行雄『原色シグマ新日本文学史 ビジュアル解説』文英堂(平11) 稲岡耕二『万葉集必携II』学燈社(昭62) 伊藤博『万葉集の歌群と配列 上』塙書房(平2) 尾崎暢殃『万葉歌の発想』明治書院(平3) 遠藤嘉基『注解 日本文学史』中央図書(昭35) 小島憲之『日本古典文学大系 懐風藻 文華秀麗集 本朝文粹』岩波書店(昭39) 小島憲之『上代日本文学と中国文学 中―出典論を中心とする比較文学的考察―』塙書房(昭39) 小島憲之『万葉集研究 第八集』塙書房(昭54) 小島憲之『万葉集研究 第十集』塙書房(昭56) 小島憲之『万葉集研究 第二十集』塙書房(平6) 桜井満ら『必携 万葉集要覧』桜楓社(昭51) 中国語で読める参考文献 洪淑苓『牛郎織女研究』台灣學生書局(民77) 中西進著 劉雨珍等譯『萬葉集與中國文化』北京市白帆印務有限公司(民96) [1] 洪淑苓(民77)『牛郎織女研究』P.36 [2] 桜井満ら「社会‧民俗篇」『必携 万葉集要覧』桜楓社 P.54 [3] 桜井満ら「社会‧民俗篇」『必携 万葉集要覧』桜楓社 P.100 [4] 以下、下線は筆者。 [5] 服部喜美子「万葉集七夕歌小考」『万葉集研究 第十集』塙書房P.269 [6] 前出(4) [7] 小島憲之(昭39)『上代日本文学と中国文学 中―出典論を中心とする比較文学的考察―』塙書房 P.1138 [8] 尾崎暢殃『万葉歌の発想』P.78-79 [9] 桜井満ら『必携 万葉集要覧』P.54 [10] 小島憲之(昭39)『上代日本文学と中国文学 中―出典論を中心とする比較文学的考察―』塙書房 P.1120-1121 [11] 前出(4)P.270
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